中途発達障害はこうして生き残る

社会に出てから発達障害と発覚したことを中途発達障害と題し、中途発達障害者である私の生き残りかたをメインに記すものである

第六話 ついに発見!?発達障害

発達障害の疑惑が高まったところでさぁどうしましょうというのが常である。
巷では診断を受けろーなどと簡単にいってくれるが発達障害の診断がきちんとできる医者がどれだけいるのだろうか?かといって未診断では診断も受けてない、にわかのくせにと発達障害間の差別が始まってしまうのも悲しいところだ。しかしながら筆者は幸いにも信頼できそうな医者を発見できた。(注釈を入れる必要もそろそろなくなってきたと思いますが見つけたのは妻です)発達障害の診断を受けたいと申し込んだ(Q.申し込んでくれたのは誰でしょう?)ところ幼少のころの様子やなんかをまとめてきてと言われ、全然覚えてない筆者はあてにならないので旧家族にも協力を要請してみたが、お察しの通りである。
見当はずれに的外れ頓珍漢な文字の羅列がよこされただけであった。しかたないのでそれを元に再度編成しなおしたりしてみたが結局そのまま提出したので診察の場では口頭説明による補足をしまくって(妻が)事なきを得たのであった。兆候はありありとしているということで検査を受けるとことになった筆者。検査の予約をしてその日は終わったのであった。

発達障害の診察に必要なものとしていわれたのは以下2点でした
母子手帳
・幼少のころから現在まででどんな様子だったか、どんな不都合があったか、どんなこだわりがあったかをまとめた資料

検査の日、ウェイスとやらを受けたと記憶している。
このことは妻には秘密にしているのだが、検査員がJD風の美人だったため正常な測定はできていないのではないか(本来の力以上のものがでてしまったのではないか)と私は危惧している。
書いたり、話したり、計算したり、物語を作ったり、積み木をしたり、様々な検査を受けたが結構な時間がかかるので体力に自信がない場合はその旨伝えて休憩をはさみながらやっていきましょう。

検査の結果、なんとか広汎性発達障害ADHDの診断を受けたのでした。
そうそう、この時に漸く肩の荷が下りたというか、「もう無理して人間のふりをしなくていいんだよ」と言われたような気がしてとても楽になったことを覚えています。
それまでの私はどこか無理をしたり、一般的な他者と違うことが気になっていたことを思い出しました。そのために中二病をこじらせてしまっていた時期もあったりして自分は他のくだらない人間とは違うんだ!と本気で思っていた時期もありましたが、あながち間違っていたことではなかったんですねぇ。(そもそも人間でなかった!)しかし社会にうまく溶け込もうとしたり会社では他の人ができることがなんで私にできないのだろうとか3秒くらい悩んだこともあったなぁと思い返してみて、いろんなもの背負ってたんだと改めて思いながらその荷物をすべて捨ててやったものです。

「性格だからねぇ」「本人が自覚しないと」「こだわりでしょ」これらは医者(今の主治医)に言われた言葉ですがとても楽になりました。変えられないもの(性格やこだわり)はそのままに、変えられる(自覚していく)ところは変えていく、そういう指針を得た筆者はついに次のステップに踏み出す時がやってきたんだ!と感じざるを得なかったのです。

漸く発達障害の認定を受けた筆者、ここから怒涛の快進撃が始まる……わけもなく、遊び呆ける日々が続くのでした。
なんでやねん!

この時はまだ他のクリニックに通っていたため、ここはメインではありませんでした。
通っている病院と診断を受けた病院が異なるとあとあと面倒なことになるので、可能ならば二次障害でやられてしまう前に発達障害の診断を受けて一本槍でいけたら各種手続き系が楽なんですけどね、そう簡単にいけたらみんな苦労していないって話ですよ。ほんとに。

A.妻です。(知ってた